きみゆあさんへ
questさんへ
コメントありがとうございます。
しばらく静かにしています。
気が向いたときは、たまに書くつもりでいます。
和尚の写真プレゼントします。
しばらく静かにしています。
気が向いたときは、たまに書くつもりでいます。
和尚の写真プレゼントします。
紅さんへ
更新もしていませんが紅さんからコメントをいただきました。
ありがとうございます。
最近は言葉で悟り話をすることがどうしてもしらけてしまいます。
釈迦が無言で分かち合ったか、和尚が無言でその臨済を感じるようにと言ったのか、痛いほど分かるようになりました。
> 桜が咲いて、もう散ったかと思えば、
> 雨降り続きの最近に、そのうち梅雨が来るのかあなんて思わされたりしながら、
> 枯れ枝に新しい葉の芽を見つけた、冬の終わり頃の日のことが、
> つい昨日のように思い出されます。
>
> と、ちょっと気取って文章を書いてみましたが(笑)、
> 季節を感じ取れるようになって嬉しく思うと同時に、
> ああこんなにも季節が過ぎ行くのはあっという間なのだなぁ、と思わされました。
>
忙しい、マインドの観念の世界に生きる時、季節のゆらぎさえも感じられないと思います。
自分も含め、ひとつのエネルギーの動きです。
分離したものではありません、
>
> ブログの更新がなくても、こちらにはせっせと通い詰めてしまっているのですが。
>
> このブログのなかで、ここにいる人のそばで、姿をながめてただじっと座り込んでいることの何かに、
> 一人で公園でぼんやり座り込んでいるのと同じ安心感を見ました。
> 何もない、だから境界線もなくて、自分の存在への拒否もされていない。
無言の分かち合いをくみ取って下さったようで嬉しい限りです。
ありがとうございます。
>
> 一人で過ごすことは寂しい人間のすることだと、未だに先入観が根強かったのですが。
> それは分離感から来る孤独の成せるワザなのだなぁ、と。
寂しい人間は一人が怖いのです。
これを孤独と和尚は言います。
そう言う意味では、どんなに他人と連んでみても内側は孤独な人がほとんどです。
豊かな人間は一人が自由で気が楽なのです。
自分自身で良い事が安らぎなのです。
けっして退屈することはありません。
行為より存在すること(一人ではなくひとつ)の喜びを知るからです。
自分の存在(ひとつ)にくつろぐこと・・・・
それが自立です。
>
> 誰かと一緒に過ごすことが悪いわけでもなくて、一人でいれば解決するわけでもなくて、
> 誰かと一緒にいてもよくて、
> でもそのときはただ、じっと座っているだけが、一番に素晴らしい。
>
>
> ちっともまとまっていない文章ですが(笑)、
> 「誰かといる」のに「誰もいない」のと同じような空間が広がることって、あるのだなぁと、
> 自分にとっては新たな!発見だったので、ついついコメントを書き込んでしまいました。
> あったかいのは、嬉しいので好きです。
>
他人と連んでいても内側は孤独である人と反対に、まわりに他人が存在しても内側はひとつであること・・・・
それは悟り人に共通の在り方です。
肉眼では見えませんし、肉眼で見れば同じような状況でも内側のエネルギー状態は正反対なのです。
悟りは、自身の在り方、つまり自分のエネルギー状態について分かち合います。
そうすると「何を・・・・」は関係ないということが分かると思います。
内側は動詞だけが残っていくところまで辿り着くと思います。
「ストーリーをもぎ取って」と言ってきたのはそういうことなのです。
それは大自然の動きとシンクロして生きることでもあります。
> ありがとうございました!
こちらこそありがとうございました。
ありがとうございます。
最近は言葉で悟り話をすることがどうしてもしらけてしまいます。
釈迦が無言で分かち合ったか、和尚が無言でその臨済を感じるようにと言ったのか、痛いほど分かるようになりました。
> 桜が咲いて、もう散ったかと思えば、
> 雨降り続きの最近に、そのうち梅雨が来るのかあなんて思わされたりしながら、
> 枯れ枝に新しい葉の芽を見つけた、冬の終わり頃の日のことが、
> つい昨日のように思い出されます。
>
> と、ちょっと気取って文章を書いてみましたが(笑)、
> 季節を感じ取れるようになって嬉しく思うと同時に、
> ああこんなにも季節が過ぎ行くのはあっという間なのだなぁ、と思わされました。
>
忙しい、マインドの観念の世界に生きる時、季節のゆらぎさえも感じられないと思います。
自分も含め、ひとつのエネルギーの動きです。
分離したものではありません、
>
> ブログの更新がなくても、こちらにはせっせと通い詰めてしまっているのですが。
>
> このブログのなかで、ここにいる人のそばで、姿をながめてただじっと座り込んでいることの何かに、
> 一人で公園でぼんやり座り込んでいるのと同じ安心感を見ました。
> 何もない、だから境界線もなくて、自分の存在への拒否もされていない。
無言の分かち合いをくみ取って下さったようで嬉しい限りです。
ありがとうございます。
>
> 一人で過ごすことは寂しい人間のすることだと、未だに先入観が根強かったのですが。
> それは分離感から来る孤独の成せるワザなのだなぁ、と。
寂しい人間は一人が怖いのです。
これを孤独と和尚は言います。
そう言う意味では、どんなに他人と連んでみても内側は孤独な人がほとんどです。
豊かな人間は一人が自由で気が楽なのです。
自分自身で良い事が安らぎなのです。
けっして退屈することはありません。
行為より存在すること(一人ではなくひとつ)の喜びを知るからです。
自分の存在(ひとつ)にくつろぐこと・・・・
それが自立です。
>
> 誰かと一緒に過ごすことが悪いわけでもなくて、一人でいれば解決するわけでもなくて、
> 誰かと一緒にいてもよくて、
> でもそのときはただ、じっと座っているだけが、一番に素晴らしい。
>
>
> ちっともまとまっていない文章ですが(笑)、
> 「誰かといる」のに「誰もいない」のと同じような空間が広がることって、あるのだなぁと、
> 自分にとっては新たな!発見だったので、ついついコメントを書き込んでしまいました。
> あったかいのは、嬉しいので好きです。
>
他人と連んでいても内側は孤独である人と反対に、まわりに他人が存在しても内側はひとつであること・・・・
それは悟り人に共通の在り方です。
肉眼では見えませんし、肉眼で見れば同じような状況でも内側のエネルギー状態は正反対なのです。
悟りは、自身の在り方、つまり自分のエネルギー状態について分かち合います。
そうすると「何を・・・・」は関係ないということが分かると思います。
内側は動詞だけが残っていくところまで辿り着くと思います。
「ストーリーをもぎ取って」と言ってきたのはそういうことなのです。
それは大自然の動きとシンクロして生きることでもあります。
> ありがとうございました!
こちらこそありがとうございました。
ナン
今日のお昼は「なんちゃってナン」でした。
ベーコンをトッピングして・・・・
本格的なナンはレストランで食べるもの。
これはインドでもそうなのです。
家庭にはタンドール(窯)はないですし、チャパティーという簡単に出来るものが毎日にように食べられています。
最近はわかりませんが、私がインドに滞在したころは、庶民はチャパティーを食べていました。
ナンはレストランに行けるような裕福な人の食べ物でした。
300度で焼くナンを家庭用のオーブンで焼くと250度くらいでしか焼けません。
それも面倒ということでフライパンで焼くので「なんちゃってナン」くらいしか出来ません。
どちらかというとチャパティーのような感じです。
それでも焼きたては美味しいものです。(^^)
最近ご近所にインド人のお店が出来ました。
タンドールはインドから持って来たそうですが、やっぱりお店で食べるナンは美味しいです。
30代の頃は山口市内のシバというインド料理店に行ったものですが、半年前に直ぐ近くにインド料理店が出来たので喜んでいます。
パンは好きでないというニシキさんもすっかりナンが好きになられたようです。
シバ
ちえこばあちゃんも老体に鞭打って食べに行ったそうでナンだけは全部完食したそうです。
私はナンが大好きで、インドのレストランでバターナンというものを食べていました。
1ドル120円くらいの頃でも、日本人にとってはそれほど高価というものではありませんでした。
それでもインド人にとっては、その頃、とても高価な食べ物でした。
私はごはんも食べるだけ、毎回お鍋で炊きます。
炊きたてのごはんは、おにぎりにするだけで美味しいです。
パンも自分で焼くと、添加物は入らないし、何より美味しいです。
ホームベーカリーで捏ねだけさせて、あとはオーブンで焼きます。
余熱して焼くオーブンの方がやっぱり美味しいからです。
やりたいことをやりたいときにやりたいようにすれば良い環境を自分に与えたので、好きなように暮らしています。
それを許すのは自分でしかありません。
食べているものは質素ですが、社会の鎖で時間を拘束され、コンビニのお世話になる生き方より比較にならない贅沢なひとときを過ごしています。
ただし前にもお話ししましたが、私と同じような生き方が惨めで苦しいと感じる人も多いはずで、「生」というものが外側だけの世界ではないことを物語っています。
外側は同じようでも、感じ方はそれぞれ・・・・
同時に存在する多次元を生きているのですから、質の次元をよりどころとするようになると、量の次元を生きる人とは感じ方が異なるのは当たり前です。
ベーコンをトッピングして・・・・
本格的なナンはレストランで食べるもの。
これはインドでもそうなのです。
家庭にはタンドール(窯)はないですし、チャパティーという簡単に出来るものが毎日にように食べられています。
最近はわかりませんが、私がインドに滞在したころは、庶民はチャパティーを食べていました。
ナンはレストランに行けるような裕福な人の食べ物でした。
300度で焼くナンを家庭用のオーブンで焼くと250度くらいでしか焼けません。
それも面倒ということでフライパンで焼くので「なんちゃってナン」くらいしか出来ません。
どちらかというとチャパティーのような感じです。
それでも焼きたては美味しいものです。(^^)
最近ご近所にインド人のお店が出来ました。
タンドールはインドから持って来たそうですが、やっぱりお店で食べるナンは美味しいです。
30代の頃は山口市内のシバというインド料理店に行ったものですが、半年前に直ぐ近くにインド料理店が出来たので喜んでいます。
パンは好きでないというニシキさんもすっかりナンが好きになられたようです。
シバ
ちえこばあちゃんも老体に鞭打って食べに行ったそうでナンだけは全部完食したそうです。
私はナンが大好きで、インドのレストランでバターナンというものを食べていました。
1ドル120円くらいの頃でも、日本人にとってはそれほど高価というものではありませんでした。
それでもインド人にとっては、その頃、とても高価な食べ物でした。
私はごはんも食べるだけ、毎回お鍋で炊きます。
炊きたてのごはんは、おにぎりにするだけで美味しいです。
パンも自分で焼くと、添加物は入らないし、何より美味しいです。
ホームベーカリーで捏ねだけさせて、あとはオーブンで焼きます。
余熱して焼くオーブンの方がやっぱり美味しいからです。
やりたいことをやりたいときにやりたいようにすれば良い環境を自分に与えたので、好きなように暮らしています。
それを許すのは自分でしかありません。
食べているものは質素ですが、社会の鎖で時間を拘束され、コンビニのお世話になる生き方より比較にならない贅沢なひとときを過ごしています。
ただし前にもお話ししましたが、私と同じような生き方が惨めで苦しいと感じる人も多いはずで、「生」というものが外側だけの世界ではないことを物語っています。
外側は同じようでも、感じ方はそれぞれ・・・・
同時に存在する多次元を生きているのですから、質の次元をよりどころとするようになると、量の次元を生きる人とは感じ方が異なるのは当たり前です。
おせっかいは慎みたい!
過去記事で「今が旬」という言葉を使ったことがあります。
マイブームでも良いのですが、その時々でエネルギーが重点的に向かう方向が異なるということです。
それで良いので、今しか向かわない何かにエネルギーを向けることは悪いことではなく意識さえあれば生を豊かな方向に向かわせると思います。
大半は「別にこんなこと、どうでも良かった。」と手放すための気づきを得るのですが・・・・(^^;)
私は建築士の受験のことを書きました。
あの時しかエネルギーは向かわなかったと思います。
「とりあえず家で仕事できるし、マイペースで動ける便利な資格」と思い込んでいたからです。
その思いこそが勉強嫌いの私を半年間支えて、試験のため、図面速度を上げる訓練に励ませたのです。
そんなことがどうでも良くなった今では、どんな資格も色あせて見えます。
人は思いによって突き動かされています。
これが磁力なのです。
多くの人はマイブームとして割り切れなくてずっと続く、いや、続けたいことを持っています。
それが苦しみを生み出します。
悟りでは夢が叶った事なんてどうでも良く、このメカニズムに気がつく事こそ大切になります。
夢を叶える引き寄せの法則なんてものは、幼稚に思えるようになります。
眠りこけていないと夢を叶えることがマイブームにならないからです。
知ったかぶりではなく、自分の中で存在の喜びに触れるとそうなります。
一度マインドという観念を脇に置いて、存在とひとつになることを体験すると、気をつけることが変わってきます。
分離した見方はマインドの観念なのです。
何度も一つの生命体としての営みということを伝えましたが、洗脳されているのですから自我という分離感はつきまといます。
ぐっすり眠っている間の悩み事はこの観念の中のストーリーです。(存在とは何の関係もないこと)
目覚めてくるとマインドの中に引き込まれていることを問題視するようになります。
マインドの思考なんてどうでも良く、純粋な気づき(意識体)として存在することが出来ていない自分を見つめるようになります。
疑問は落ちるとも言いましたが、それはマインドの中の観念なのでマインドを落とすと疑問は落ちて行きます。
「解決しようと思わないで下さい。」という悟り人の言葉は、解決しようと問題視するのはマインド思考に過ぎないことを伝えています。
マインドを脇に置けるなら、「問題なし」の境地で存在出来ます。
全体性の中で起こることが起こるのであって何が起こっても問題ということではありません。
私の話を聞いて「生き甲斐がなくなる」という方もおられますが、よりどころが異なるからです。
観念に価値観を置いていません。
存在の喜びとひとつになることを心地良く感じています。
だから観念の人には伝わりません。
ここまで覚醒が高まると師は必要無いと思います。
さて前置きが長くなりました。
今日書きたかったことです。
全覚醒者のエネルギー磁場の中に、ぐっすり眠りこけた人がさまよい込むと眠れなくなるので気が狂うということを過去記事で書いたと思います。
「訓練の人」が結界を張ると入ってい行けない場所があるのはそういうことらしいです。
そのへんのテクニックを持っている人に出来ることです。
そんなことが出来る出来ないが悟りには関係ないのですが、インドではこのへんのテクニックを教える秘境スクールが存在していたからです。
普通の人はテクニックを持った人を崇めまが「悟り+訓練の人」と「悟りは無く訓練だけの人」が存在します。
この気が狂うということを和尚が別の言い方で伝えている箇所がありました。
とても身近なことなので日記に書くことにしました。
「観念の中を生きている人から、観念を奪うと気が狂ったり、寿命を縮めたりする。」ということを覚えて置いて下さい。
つまり生き甲斐です。
生き甲斐がストーリー性の中にある人から観念を奪い、何もしなくて良い事を押しつけても生きられないということです。
何もしないことが不安な人、忙しくしていないと幸せを感じない人に向かって、悟り話は、しても無駄であると言うことです。
政界、芸能界、スポーツ界、そんな中によりどころがある人は特に肩書きが消えると狂いやすくなります。
学校の先生も必ず元教師の肩書きを持ちたがりますし、観念の世界を生き抜いています。
悟り話が時期(磁気)が来た人だけにしかできないのは、そういうものだからです。
エネルギー体として波動を刻んでいますが、方向性を求める人から方向性を奪うと病んでしまうということ・・・・
だから人のことより自分の成長を見つめていればそれで良いのです。
もし、悟りの道を歩き出した人のエネルギーに引きつけられる人が現れたら、それが準備の出来た人ということです。
大自然の法則は、まず自分が幸せというエネルギー体と化すこと・・・・
それから全てが始まるように設計されています。
実に素晴らしいことです。
そして、おせっかいは慎みたいものです。
「絆」という言葉のもとでおせっかいが横行していませんか?
マイブームでも良いのですが、その時々でエネルギーが重点的に向かう方向が異なるということです。
それで良いので、今しか向かわない何かにエネルギーを向けることは悪いことではなく意識さえあれば生を豊かな方向に向かわせると思います。
大半は「別にこんなこと、どうでも良かった。」と手放すための気づきを得るのですが・・・・(^^;)
私は建築士の受験のことを書きました。
あの時しかエネルギーは向かわなかったと思います。
「とりあえず家で仕事できるし、マイペースで動ける便利な資格」と思い込んでいたからです。
その思いこそが勉強嫌いの私を半年間支えて、試験のため、図面速度を上げる訓練に励ませたのです。
そんなことがどうでも良くなった今では、どんな資格も色あせて見えます。
人は思いによって突き動かされています。
これが磁力なのです。
多くの人はマイブームとして割り切れなくてずっと続く、いや、続けたいことを持っています。
それが苦しみを生み出します。
悟りでは夢が叶った事なんてどうでも良く、このメカニズムに気がつく事こそ大切になります。
夢を叶える引き寄せの法則なんてものは、幼稚に思えるようになります。
眠りこけていないと夢を叶えることがマイブームにならないからです。
知ったかぶりではなく、自分の中で存在の喜びに触れるとそうなります。
一度マインドという観念を脇に置いて、存在とひとつになることを体験すると、気をつけることが変わってきます。
分離した見方はマインドの観念なのです。
何度も一つの生命体としての営みということを伝えましたが、洗脳されているのですから自我という分離感はつきまといます。
ぐっすり眠っている間の悩み事はこの観念の中のストーリーです。(存在とは何の関係もないこと)
目覚めてくるとマインドの中に引き込まれていることを問題視するようになります。
マインドの思考なんてどうでも良く、純粋な気づき(意識体)として存在することが出来ていない自分を見つめるようになります。
疑問は落ちるとも言いましたが、それはマインドの中の観念なのでマインドを落とすと疑問は落ちて行きます。
「解決しようと思わないで下さい。」という悟り人の言葉は、解決しようと問題視するのはマインド思考に過ぎないことを伝えています。
マインドを脇に置けるなら、「問題なし」の境地で存在出来ます。
全体性の中で起こることが起こるのであって何が起こっても問題ということではありません。
私の話を聞いて「生き甲斐がなくなる」という方もおられますが、よりどころが異なるからです。
観念に価値観を置いていません。
存在の喜びとひとつになることを心地良く感じています。
だから観念の人には伝わりません。
ここまで覚醒が高まると師は必要無いと思います。
さて前置きが長くなりました。
今日書きたかったことです。
全覚醒者のエネルギー磁場の中に、ぐっすり眠りこけた人がさまよい込むと眠れなくなるので気が狂うということを過去記事で書いたと思います。
「訓練の人」が結界を張ると入ってい行けない場所があるのはそういうことらしいです。
そのへんのテクニックを持っている人に出来ることです。
そんなことが出来る出来ないが悟りには関係ないのですが、インドではこのへんのテクニックを教える秘境スクールが存在していたからです。
普通の人はテクニックを持った人を崇めまが「悟り+訓練の人」と「悟りは無く訓練だけの人」が存在します。
この気が狂うということを和尚が別の言い方で伝えている箇所がありました。
とても身近なことなので日記に書くことにしました。
「観念の中を生きている人から、観念を奪うと気が狂ったり、寿命を縮めたりする。」ということを覚えて置いて下さい。
つまり生き甲斐です。
生き甲斐がストーリー性の中にある人から観念を奪い、何もしなくて良い事を押しつけても生きられないということです。
何もしないことが不安な人、忙しくしていないと幸せを感じない人に向かって、悟り話は、しても無駄であると言うことです。
政界、芸能界、スポーツ界、そんな中によりどころがある人は特に肩書きが消えると狂いやすくなります。
学校の先生も必ず元教師の肩書きを持ちたがりますし、観念の世界を生き抜いています。
悟り話が時期(磁気)が来た人だけにしかできないのは、そういうものだからです。
エネルギー体として波動を刻んでいますが、方向性を求める人から方向性を奪うと病んでしまうということ・・・・
だから人のことより自分の成長を見つめていればそれで良いのです。
もし、悟りの道を歩き出した人のエネルギーに引きつけられる人が現れたら、それが準備の出来た人ということです。
大自然の法則は、まず自分が幸せというエネルギー体と化すこと・・・・
それから全てが始まるように設計されています。
実に素晴らしいことです。
そして、おせっかいは慎みたいものです。
「絆」という言葉のもとでおせっかいが横行していませんか?
命そのものが永遠の神秘
震災から1年ですね。
昨年、震災が起こった時間、私はちえこばあちゃんと悟り話をしていました。
もし、西日本に起こっていたら、私はちえこばあちゃんと二人の環境で震災に遭っていたことになります。
今は小さな意識を出来るだけ大きく広げていくことが大切なのだろうと思います。
言葉でどう説明してもそのものは伝えられません。
意識の広がり・・・・
それも物理次元で考えていたらいつまでたっても辿り着けません。
内側はエネルギーの状態、在り方の世界です。
その次元を生きるようになると、することから在ることによりどころがシフトしていきます。
静かで在る状態が好き・・・・
穏やかでリラックスしている状態が好き・・・・
中心という質、つまりふらふらと動かないでどっしりしている状態が好き・・・・
豊かであるという質の状態が好き・・・・
眠っている人々は、することを求めます。
内側はもがいているのにオリンピックで金メダルをとることとか・・・・
今日は女子マラソンがありましたが、まさにそれです。
今ここに全てが存在するので、何も求める必要はないという悟り人たちの言葉・・・・
エネルギーの状態であれば、時空を越え自分次第ということです。
私は「忍法ラブラブ」と言っていました。
マインドがせわしく回っているのに気がつくと、この言葉を放って全体性という愛の質にシンクロさせるのです。
意識の広がりとは全体性という質とも言えます。
つまり外側で起こることは全て受け入れるという質、それは観ているという質でもあります。
ここまで瞑想性がアップしてくると、人は受け入れられないことの反作用を必ず受けることになると知るようになります。
だから善悪の判断の強い正義感を携えた人は、苦しむことになります。
ひとつの生命体としての営み・・・・
命そのものが永遠の神秘です。
これは解明することではありません。
マインドを脇に置くと感じることが出来ます。
昨年、震災が起こった時間、私はちえこばあちゃんと悟り話をしていました。
もし、西日本に起こっていたら、私はちえこばあちゃんと二人の環境で震災に遭っていたことになります。
今は小さな意識を出来るだけ大きく広げていくことが大切なのだろうと思います。
言葉でどう説明してもそのものは伝えられません。
意識の広がり・・・・
それも物理次元で考えていたらいつまでたっても辿り着けません。
内側はエネルギーの状態、在り方の世界です。
その次元を生きるようになると、することから在ることによりどころがシフトしていきます。
静かで在る状態が好き・・・・
穏やかでリラックスしている状態が好き・・・・
中心という質、つまりふらふらと動かないでどっしりしている状態が好き・・・・
豊かであるという質の状態が好き・・・・
眠っている人々は、することを求めます。
内側はもがいているのにオリンピックで金メダルをとることとか・・・・
今日は女子マラソンがありましたが、まさにそれです。
今ここに全てが存在するので、何も求める必要はないという悟り人たちの言葉・・・・
エネルギーの状態であれば、時空を越え自分次第ということです。
私は「忍法ラブラブ」と言っていました。
マインドがせわしく回っているのに気がつくと、この言葉を放って全体性という愛の質にシンクロさせるのです。
意識の広がりとは全体性という質とも言えます。
つまり外側で起こることは全て受け入れるという質、それは観ているという質でもあります。
ここまで瞑想性がアップしてくると、人は受け入れられないことの反作用を必ず受けることになると知るようになります。
だから善悪の判断の強い正義感を携えた人は、苦しむことになります。
ひとつの生命体としての営み・・・・
命そのものが永遠の神秘です。
これは解明することではありません。
マインドを脇に置くと感じることが出来ます。
循環
最近は、日記にエネルギーが向かいません。
文字に出来ないといった感じです。
今日は、所得の申請に役所に行きました。
所得はありませんが、国保の掛け金を決めるための申請です。
名前を書いたら札を渡されるのですが、例によってシンクロして99番でした。
自分でもいつも感心します。
よくこんなに9がつきまとうものだと・・・・
過去記事に書きましたが、霊数9の申し子です。(^^;)
9+9=18
1+8=9
といった感じで9という数字は循環します。
何かを内側に握っていると循環できません。
手放したとき、てぶらになったとき次なるものが回ってきます。
しかしマインドはてぶらにさせません。
てぶらになると軽くなるのに、生き甲斐とか聞こえの良いことを言って常に何かを握らせようとします。
もし循環が上手くいっていないなら、握ったものを手放しましょう。
和尚が言うように苦しみを手放すことが出来ないでいる人が多いです。
苦しみのエネルギーが大好きという自覚はないでしょうが握っているということはエネルギー法則上「好きなエネルギー」ということになります。
文字に出来ないといった感じです。
今日は、所得の申請に役所に行きました。
所得はありませんが、国保の掛け金を決めるための申請です。
名前を書いたら札を渡されるのですが、例によってシンクロして99番でした。
自分でもいつも感心します。
よくこんなに9がつきまとうものだと・・・・
過去記事に書きましたが、霊数9の申し子です。(^^;)
9+9=18
1+8=9
といった感じで9という数字は循環します。
何かを内側に握っていると循環できません。
手放したとき、てぶらになったとき次なるものが回ってきます。
しかしマインドはてぶらにさせません。
てぶらになると軽くなるのに、生き甲斐とか聞こえの良いことを言って常に何かを握らせようとします。
もし循環が上手くいっていないなら、握ったものを手放しましょう。
和尚が言うように苦しみを手放すことが出来ないでいる人が多いです。
苦しみのエネルギーが大好きという自覚はないでしょうが握っているということはエネルギー法則上「好きなエネルギー」ということになります。
なぜなぜ病
悟りの道というのは心を置いて、意識を体験する方向に進むのですが、心は「なぜ」が大好きです。
全てにおいて「なぜ」を追求することが素晴らしいことと思い込んでいます。
これこそがマインド病なのですが・・・・
「私はどうして自分がここにいるのかわかりません。」という弟子の質問に和尚は言います。
誰も分からない。
そしてそれを知る方法は何もないし、それを知る必要もない。
この絶えざる「なぜ」への憧れ、これはひとつの心の病気だ。
「なぜ」にはきりがない。
ひとたびこれを理解したならあなたは「なぜ」を落とす。
この「なぜ」が大切な間はマインドがエネルギーを必要以上に使い続けます。
落としたときから、生きることの歓喜にエネルギーを回すようになります。
自分の生命エネルギーが一番大切なことに気がつくようになります。
永遠の中で生きることが始まると「死」というのはひとつの変化でありエネルギー的に消滅ではないことを理解します。
エネルギー体として生きるようになると、悟り人が言う「死もまた幻想に過ぎない」という感覚が伝わるでしょう。
全てにおいて「なぜ」を追求することが素晴らしいことと思い込んでいます。
これこそがマインド病なのですが・・・・
「私はどうして自分がここにいるのかわかりません。」という弟子の質問に和尚は言います。
誰も分からない。
そしてそれを知る方法は何もないし、それを知る必要もない。
この絶えざる「なぜ」への憧れ、これはひとつの心の病気だ。
「なぜ」にはきりがない。
ひとたびこれを理解したならあなたは「なぜ」を落とす。
この「なぜ」が大切な間はマインドがエネルギーを必要以上に使い続けます。
落としたときから、生きることの歓喜にエネルギーを回すようになります。
自分の生命エネルギーが一番大切なことに気がつくようになります。
永遠の中で生きることが始まると「死」というのはひとつの変化でありエネルギー的に消滅ではないことを理解します。
エネルギー体として生きるようになると、悟り人が言う「死もまた幻想に過ぎない」という感覚が伝わるでしょう。
否定的なマインドを超越するその7
その6の続きです。
今回がこのメソッドの最後です。
和尚は同じ時代をインドで生きたもうひとりのの悟り人、クリシュナムルティーの話をときどきします。
彼の存在は大好きでも、分かち合い方は大嫌いだと言うのが和尚の持論です。
「彼は、もう師匠を必要としない人に向けて話している。」と言います。
和尚から・・・・
クリシュナムルティは無選択について語りつづける。だがその聴衆は否定的だ。耳は傾けるが、けっして理解しない。
聴衆が理解しないと、クリシュナムルティは苛立つ、なぜなら聴衆に理解してもらえないからだ。
彼の言っていることを理解できるのは、肯定的な人間だけだ。だが肯定的な人びとは、どこへ行く必要もない。
クリシュナムルティやラジニーシ(和尚)といった人間のもとへ行く必要がない。
否定的なマインドだけが教師を探し、マスターを探す。
否定的なマインドに対して無選択を語っても、「二元性の超越」を語っても、「否定性と肯定性の両方を生きよ」と語っても、それは無意味だ。それが非真実だというわけではない。それは真実だ。だが意味がない。
聴いている人のことを考慮に入れる必要がある。聴き手のほうが語り手よりも重要だ。
私の見るところ、あなたは否定的だ。だからまず最初に必要なのは、肯定性への変容だ。「否定家」から「肯定家」になることだ。生を「イエス」の姿勢で見ることだ。
そして「イエス」の姿勢によって、この地球そのものが全面的に変容する。肯定的態度に到達して初めて、無選択へと飛躍できる――そしてそれは簡単だ、とても簡単だ!
苦は放棄できない。むずかしいことだ。あなたはそれにしがみついてしまう。放棄できるのは幸福だけだ。というのも、あなたはもう知っているからだ――否定性を放棄すると、肯定性と肯定的幸福が得られる。
否定性を放棄すると、幸福が得られる。たんに否定性を放棄するだけで、幸福に到達する。そして今度、この幸福も放棄し、この肯定的なマインドも放棄すると、「無限」への扉が開かれる。
だが要は、まずその肯定性を感じることだ。そうして初めて、そうして初めて飛躍ができる。
私も「ノージャッジ」とか「解決しようと考えない事」とかよく分かち合っていました。
けれど、まずは肯定的なマインドに持って行くことの方が簡単だということです。
中庸への道はその次の段階ということになります。
中心というのはけっして姿形は見せない何かです。
けれどそれがなければ全ては動けない何かです。
観るというのは、ただ気づいているということです。
今、気づきとともに在るという状態です。
そのとき、ストーリー性は消えています。
内側で「世界が消える」と和尚が言う状態です。
マインドが回りっぱなしの時は、全く自分のエネルギー状態に意識は向いていません。
自分のエネルギー状態に気がついていることは大切なことです。
今の磁力・・・・
時期と磁気・・・・
解決しようと気張らなくても、時期がきたら磁気を伴って動きがでるものです。
花は咲くときがきたら咲きます。
それなのに花を咲かせようとやっきになって痛い思いをしているのが大半の人の人生です。
全ては「どうやって、どうやって咲かせるのか?」という「どうやって・・・・」にエネルギーをつぎ込みます。
咲かせるというより裂かせることになりがちです。
悟りの道は、この「どうやって・・・・」と落とし全体とひとつになり「ただ待つこと」の質を育てることでもあります。
自然と調和したエネルギー状態として在ること・・・・
自然な生き方です。
どの意識次元を生きるのもすべて自由です。
今回がこのメソッドの最後です。
和尚は同じ時代をインドで生きたもうひとりのの悟り人、クリシュナムルティーの話をときどきします。
彼の存在は大好きでも、分かち合い方は大嫌いだと言うのが和尚の持論です。
「彼は、もう師匠を必要としない人に向けて話している。」と言います。
和尚から・・・・
クリシュナムルティは無選択について語りつづける。だがその聴衆は否定的だ。耳は傾けるが、けっして理解しない。
聴衆が理解しないと、クリシュナムルティは苛立つ、なぜなら聴衆に理解してもらえないからだ。
彼の言っていることを理解できるのは、肯定的な人間だけだ。だが肯定的な人びとは、どこへ行く必要もない。
クリシュナムルティやラジニーシ(和尚)といった人間のもとへ行く必要がない。
否定的なマインドだけが教師を探し、マスターを探す。
否定的なマインドに対して無選択を語っても、「二元性の超越」を語っても、「否定性と肯定性の両方を生きよ」と語っても、それは無意味だ。それが非真実だというわけではない。それは真実だ。だが意味がない。
聴いている人のことを考慮に入れる必要がある。聴き手のほうが語り手よりも重要だ。
私の見るところ、あなたは否定的だ。だからまず最初に必要なのは、肯定性への変容だ。「否定家」から「肯定家」になることだ。生を「イエス」の姿勢で見ることだ。
そして「イエス」の姿勢によって、この地球そのものが全面的に変容する。肯定的態度に到達して初めて、無選択へと飛躍できる――そしてそれは簡単だ、とても簡単だ!
苦は放棄できない。むずかしいことだ。あなたはそれにしがみついてしまう。放棄できるのは幸福だけだ。というのも、あなたはもう知っているからだ――否定性を放棄すると、肯定性と肯定的幸福が得られる。
否定性を放棄すると、幸福が得られる。たんに否定性を放棄するだけで、幸福に到達する。そして今度、この幸福も放棄し、この肯定的なマインドも放棄すると、「無限」への扉が開かれる。
だが要は、まずその肯定性を感じることだ。そうして初めて、そうして初めて飛躍ができる。
私も「ノージャッジ」とか「解決しようと考えない事」とかよく分かち合っていました。
けれど、まずは肯定的なマインドに持って行くことの方が簡単だということです。
中庸への道はその次の段階ということになります。
中心というのはけっして姿形は見せない何かです。
けれどそれがなければ全ては動けない何かです。
観るというのは、ただ気づいているということです。
今、気づきとともに在るという状態です。
そのとき、ストーリー性は消えています。
内側で「世界が消える」と和尚が言う状態です。
マインドが回りっぱなしの時は、全く自分のエネルギー状態に意識は向いていません。
自分のエネルギー状態に気がついていることは大切なことです。
今の磁力・・・・
時期と磁気・・・・
解決しようと気張らなくても、時期がきたら磁気を伴って動きがでるものです。
花は咲くときがきたら咲きます。
それなのに花を咲かせようとやっきになって痛い思いをしているのが大半の人の人生です。
全ては「どうやって、どうやって咲かせるのか?」という「どうやって・・・・」にエネルギーをつぎ込みます。
咲かせるというより裂かせることになりがちです。
悟りの道は、この「どうやって・・・・」と落とし全体とひとつになり「ただ待つこと」の質を育てることでもあります。
自然と調和したエネルギー状態として在ること・・・・
自然な生き方です。
どの意識次元を生きるのもすべて自由です。








