否定的なマインドを超越するその1
マインドを眺めると本当に心配事を作り出すマシンだと感じます。
未来の心配は最たるものです。
「生」が遭遇ではなく、計画してこなすものになっています。
だから地獄に感じてしまうのです。
和尚のヴィギャン・バイラヴ・タントラから抜粋です。
何らかの行為のなかで、満足が感じられたとき、つねにそれを現実化せよ。
たとえば、喉の渇きを感じる。そこで水を飲む。ほのかな満足が得られる。そのとき、水を忘れ渇きを忘れるのだ。
自分の感じているほのかな満足にひたり、それによって満たされ、ただひたすら満足を感じなさい。
だが人間のマインドはやっかいだ。不満や不足しか感じない。けっして満足を感じない、けっして充足を感じない。
もし不満足だったら、それを感じ、それによって満たされてしまう。もし喉が渇いていたら、それを感じ、渇きに満たされてしまう。
渇きは喉に感じられるが、それが成長すると身体中に感じられるようになる。さらにやがて、あなたが渇きになってしまう。
自分が渇きになったと感じてしまう。もし砂漠のなかにいて、水を得る望みがまったくなかったら、そのときにはきっと「自分は渇いている」というより、「自分は渇きになった」と感じるだろう。
不満が感じられ、苦悩が感じられ、痛みが感じられる……苦しむときにはいつも、あなたがその苦しみになってしまう。
だからこそ生全体が地獄になるのだ。あなたはかつて一度も肯定性を感じたことがない。つねに否定性を感じてきた。
生というのは、それほど苦に満ちたものではない。あなたがそれを苦に満ちたものにしている。
苦というのは、我われの解釈にほかならない。仏陀のような人間は、今ここにおいて、まさにこの生において幸福だ。
クリシュナのような人間は、踊り、笛を吹く。
今ここ、この生のなかで、我われは苦のなかにいるのに、クリシュナは踊っている。
生というのは、苦ではないし、至福でもない。至福も苦も、我われが生を見るときの、その解釈、その態度、その姿勢だ。それはあなたのマインドが生をどうとるかにかかっている。
過去記事で恐怖に恐怖しないで受け入れることを書きました。
それも同じことです。
「生」が遭遇になると「恐怖ってこんな感じなんだなぁ〜、覚えて知らない友に伝えたい」くらいに新鮮に今を生きることが出来ます。
こんなふうに生きたなら、恐怖に恐怖することは無いはずなのです。
子供が親を質問攻めにすることがあります。
「恐怖って何・・・・どんなもの?」
親としては、「自分で体験するのが一番だよ」ということになるはずです。
自分で体験しているという意識があれば絶対に被害者意識は生まれません。
逃げるときに被害者意識が生まれ、苦しみに包まれることになります。
被害者意識にするのは、他ならぬ自分自身です。
「苦しみなんて最初から無かったと」いう悟り人の言葉を感じて見て下さい。
続く・・・・
追伸;
悟りとは関係ないシンクロ遊びのお話ですが、今年のNHKドラマは平清盛ですね。
今年は初めて大河ドラマを見るつもりです。
昨年は初めて朝ドラの「おひさま」を見ました。
平と言う文字には、一、八、十という数字が入っています。
いわとです。
平成は「いわとなる」というふうになります。
私は前世の記憶を二つ思い出していて、一つは平家の落人の人生であるとお話ししました。
私の名前も平家の歴史上の人物とほとんど同じなのです。
過去生だけでなく、今生生まれた家が平家の落人だからそうなりやすいのでしょうが・・・・
祖父は、大分の耶馬溪にある平田村の出身です。
戦で負けた方が悪役になって歴史に刻まれるようになっていますが、悪役の清盛を冷静に見つめようとする時期が来たようです。
今回のテーマも「生きることを楽しむ」だそうです。
今までではちょっと考えられないことです。
「平清盛=生きることを楽しむ」なんて・・・・
年末31日にオーム真理教の平田信指名手配犯が出頭してきたこともシンクロですね。
「たいらにする」ことが「いわと」であるとしたら、2012年からが本格的に禊ぎが始まるのかも知れません。
過去記事でリコネクションと題して、15年以上前に見たビジョンを書きましたが、、平家が話題になる頃というのもあったのです。
天の岩戸開きはもう始まっているのでしょうね。
覚醒することが本当に大切です。
そうでないとストーリー性に流されてしまいます。
未来の心配は最たるものです。
「生」が遭遇ではなく、計画してこなすものになっています。
だから地獄に感じてしまうのです。
和尚のヴィギャン・バイラヴ・タントラから抜粋です。
何らかの行為のなかで、満足が感じられたとき、つねにそれを現実化せよ。
たとえば、喉の渇きを感じる。そこで水を飲む。ほのかな満足が得られる。そのとき、水を忘れ渇きを忘れるのだ。
自分の感じているほのかな満足にひたり、それによって満たされ、ただひたすら満足を感じなさい。
だが人間のマインドはやっかいだ。不満や不足しか感じない。けっして満足を感じない、けっして充足を感じない。
もし不満足だったら、それを感じ、それによって満たされてしまう。もし喉が渇いていたら、それを感じ、渇きに満たされてしまう。
渇きは喉に感じられるが、それが成長すると身体中に感じられるようになる。さらにやがて、あなたが渇きになってしまう。
自分が渇きになったと感じてしまう。もし砂漠のなかにいて、水を得る望みがまったくなかったら、そのときにはきっと「自分は渇いている」というより、「自分は渇きになった」と感じるだろう。
不満が感じられ、苦悩が感じられ、痛みが感じられる……苦しむときにはいつも、あなたがその苦しみになってしまう。
だからこそ生全体が地獄になるのだ。あなたはかつて一度も肯定性を感じたことがない。つねに否定性を感じてきた。
生というのは、それほど苦に満ちたものではない。あなたがそれを苦に満ちたものにしている。
苦というのは、我われの解釈にほかならない。仏陀のような人間は、今ここにおいて、まさにこの生において幸福だ。
クリシュナのような人間は、踊り、笛を吹く。
今ここ、この生のなかで、我われは苦のなかにいるのに、クリシュナは踊っている。
生というのは、苦ではないし、至福でもない。至福も苦も、我われが生を見るときの、その解釈、その態度、その姿勢だ。それはあなたのマインドが生をどうとるかにかかっている。
過去記事で恐怖に恐怖しないで受け入れることを書きました。
それも同じことです。
「生」が遭遇になると「恐怖ってこんな感じなんだなぁ〜、覚えて知らない友に伝えたい」くらいに新鮮に今を生きることが出来ます。
こんなふうに生きたなら、恐怖に恐怖することは無いはずなのです。
子供が親を質問攻めにすることがあります。
「恐怖って何・・・・どんなもの?」
親としては、「自分で体験するのが一番だよ」ということになるはずです。
自分で体験しているという意識があれば絶対に被害者意識は生まれません。
逃げるときに被害者意識が生まれ、苦しみに包まれることになります。
被害者意識にするのは、他ならぬ自分自身です。
「苦しみなんて最初から無かったと」いう悟り人の言葉を感じて見て下さい。
続く・・・・
追伸;
悟りとは関係ないシンクロ遊びのお話ですが、今年のNHKドラマは平清盛ですね。
今年は初めて大河ドラマを見るつもりです。
昨年は初めて朝ドラの「おひさま」を見ました。
平と言う文字には、一、八、十という数字が入っています。
いわとです。
平成は「いわとなる」というふうになります。
私は前世の記憶を二つ思い出していて、一つは平家の落人の人生であるとお話ししました。
私の名前も平家の歴史上の人物とほとんど同じなのです。
過去生だけでなく、今生生まれた家が平家の落人だからそうなりやすいのでしょうが・・・・
祖父は、大分の耶馬溪にある平田村の出身です。
戦で負けた方が悪役になって歴史に刻まれるようになっていますが、悪役の清盛を冷静に見つめようとする時期が来たようです。
今回のテーマも「生きることを楽しむ」だそうです。
今までではちょっと考えられないことです。
「平清盛=生きることを楽しむ」なんて・・・・
年末31日にオーム真理教の平田信指名手配犯が出頭してきたこともシンクロですね。
「たいらにする」ことが「いわと」であるとしたら、2012年からが本格的に禊ぎが始まるのかも知れません。
過去記事でリコネクションと題して、15年以上前に見たビジョンを書きましたが、、平家が話題になる頃というのもあったのです。
天の岩戸開きはもう始まっているのでしょうね。
覚醒することが本当に大切です。
そうでないとストーリー性に流されてしまいます。


